皇室と日本人の愛国心~日本人の心の拠り所~

世界には様々な国があり、その国が建国されるに当たって辿って来た歴史が違い、国民性もお互いに異なる。

そして、その国がまとまるためには、国民同士が団結するために、お互いに愛国心を持っていることが必要である。

その愛国心も、それが醸成されるまでに辿って来たそれぞれの国の歴史が違うので、何を中心として愛国心が形成されるかが、国ごとに大きく違う。

例えば、アメリカは自由主義の国であり、多くの人は統制されることを嫌い、自分たちが好きなように生きたいと思っている。

その中で、アメリカ人の愛国心を象徴するのは星条旗である。

この星条旗という旗に敬意を表することによって、アメリカ人の愛国心が形成され、国がまとまっている。

日本人の場合、愛国心の中心にあるのは皇室である。

古来、天照大神の後孫であるとされていた天皇、および皇室を尊ぶことによって、日本人は神聖なものを頂いている気持ちになり、これが日本人の愛国心を形成していった。

今回は、現代に至るまでの、皇室を中心に愛国心が形成されていった過程を追ってみたい。

日本は昔から象徴天皇制

さて、日本国憲法では、象徴天皇制が謳われている。

憲法の第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という一文があり、第四条には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」とある。

この内容は、イギリス王室の、「国王は、君臨すれど統治せず」の内容と、ほとんど似通っている。

これが、戦前の大日本帝国憲法では、第一条が、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之を統治ス」とある。

これだけを見れば、「戦前は天皇陛下が日本を統治した専制国家だったが、前後は民主主義となり、天皇陛下は象徴的な存在となった」というように受け取れる。

しかし実際のところは、だいぶ昔から、日本は実質的に象徴天皇制だったのである。

それは、日本の歴史を順に追っていくと、実質的に象徴天皇制になっていった過程がよく分かってくる。

イギリス王室と日本の皇室の歴史の違い

イギリス王室の、「国王は、君臨すれど統治せず」という原則は、象徴天皇制に良く似ているが、これは、いくつかの革命を経て形成されていったものである。

現在のイギリス王室は元を辿れば、フランスの一貴族であったノルマンディー公ギヨーム2世による、西暦1066年のイングランド制服に端を発している。

それ以前にイギリスを支配していた王族の勢力は敗れ去って、ノルマン王朝が成立した。

その王朝は、異民族から来たため、強権をもって地元民を統治しなければならなかった。

これに対して、地元民の勢力は、たびたび協力して王権に対抗し、これがマグナカルタやイギリス議会へとつながってゆく。

ヨーロッパ中世の頃は、イギリス王室は実質としてイギリスを統治していた。

それに対して国民が本格的に反旗を翻したのが、1642年からのピューリタン革命、および1688年の名誉革命である。

この2つの革命を通して、イギリスは実質的に議会制民主主義の国となり、国王の権限は制限されて、「国王は、君臨すれど統治せず」の原則が確立していった。

これと比較すると、日本は革命などを経ることなく、徐々に実質的な象徴天皇制に移行している。

古事記によると、天照大神の後孫が皇室となったとされているが、歴史学者たちの最新の研究によれば、皇室は、古代朝鮮半島の百済王朝のある一族が日本に渡ってきたのが始まりのようである。

いくつかの土着の豪族との争いもあったが、それはまだ弥生時代のことであり、高貴な一族として、自然に日本人に受け入れられていった。

日本の皇室がイギリス王室と大きく異なるのは、神格化された存在であったがゆえに、民衆たちに自然に畏敬の念を呼び起こし、無理に力尽くで征服する必要がなかったことである。

これは皇室にとっても民衆にとっても、幸福なことであった。

そして、最初のうちは天皇自らが実権をふるっていたが、徐々に実権を行使しなくなり、象徴的な存在になってゆく。

筆者が思うに、天皇が自らの権限で大きく国を動かしたのは、桓武天皇の平安京遷都が最後であったように思う。

それ以降は、自分がリーダーシップをとって政治をするような天皇や上皇は、なかなか現れなくなった。

時々、自らリーダーシップを取ろうとするような、天皇や上皇がいたが、ことごとく失敗に終わった。

例えば、白河法皇や後白河法皇の院政は、あまり実りがなかった。

鎌倉時代の後鳥羽上皇の討幕運動や、後醍醐天皇の建武の新政も、結局は失敗に帰した。

それ以降は、自らリーダーシップを取ろうとするような天皇や上皇は、全く現れなくなったのである。

そして政治の実権は、平安時代の藤原摂関家から江戸時代の徳川将軍家に至るまで、実質的にその時の実権を掌握した勢力が、天皇や上皇を自分の都合の良いように担ぎ出して、自分の政権の正統性を主張するようになった。

天皇や上皇から宣旨を発給してもらいながら、「見よ!ここに帝からの宣旨がある。皆の者、我に従え!」といった具合である。

それが功を奏したのは、皇室が天照大神の後孫であるという、神格化された存在であったからであり、何よりも日本人自身がそれを信じ、尊んでいたからである。

なので為政者たちも、皇室をないがしろにしては民心が離れていくので、自らも皇室を尊重している姿勢を見せながら、政権の正統性の後ろ盾を頂いていたのである。

この政治システムは、近代以前の日本社会には非常に良くマッチしていた。

日本人の国民性は、あまり争いを好まず、権威に対しては比較的従順である。

また、神格化された存在を、ありがたく受け入れる。

そして次第に皇室を中心として、愛国心が形成されていったのである。

象徴天皇制は、自然の流れであった。

ただこのシステムは、江戸時代までの日本が地方分権的な国家体制だったからこそ、良く機能していた。

天皇陛下は遠い存在で、一般庶民はまずお目にかかれないお方だったがゆえに、神様のように感じられたのである。

江戸時代までの日本は、現在の各県がそれぞれ国であるような、地方分権的な社会であった。

ある大名の支配している地域が、それぞれ国と同様であり、そこの大名は殿様として、国王に似たような存在であった。

そして、そこに住む領民たちは、殿様に主君として仕えながら、一方では「江戸には将軍様がおられ、その上に、京の都には天子様がおわすらしい」と認識していた。

皇室が、遠い神様のような存在だったがゆえに、半ば信仰の対象のようであり、当時の日本人にピッタリだったのである。

近代国家日本における皇室

これが、明治維新を迎えて近代国家となった日本において、皇室の存在は大きな転機を迎える。

それまでの江戸幕府に代わって、薩摩や長州の藩士たちを中心として、明治政府の首脳部が形成されていったが、彼らもやはり、政権の正統性の後ろ盾が必要であった。

そして今までと同様に、やはり皇室を担ぎ出して自らの正統性を主張したのだが、近代国家となった日本においては、明治政府は富国強兵や殖産興業など、今までにない強権を発動する政府となった。

それは、日本人の心に、微妙な変化をもたらした。

明治憲法の第一条は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之を統治ス」である。

しかし実際のところは、天皇が自ら統治されたわけではなく、天皇の権威を後ろ盾にした明治政府が、天皇陛下の名の元に日本を統治していたわけである。

明治天皇は、それまでの天皇と同じく象徴的な存在であられたのであり、明治政府の方針にしたがって、国事行為をされていただけであった。

しかし中央集権となった近代国家の日本においては、政府の権限は今までになく強大であり、しかも天皇の名の元に強権が発動された。

また、明治憲法すなわち大日本帝国憲法を制定するにあたり、当時の為政者たちは皇帝が専制君主であるドイツの憲法を手本とした。

そして為政者たちは、「これが天皇陛下のご意志であるぞ!」という具合に、強制的に国民を服従させたのである。

一般の日本人にとっては、それまでの天皇陛下は、遠い神格化された有難い存在であったが、徐々に畏敬から少し恐怖を抱く存在になっていった。

そしてさらに、日本人と皇室にとって一番不幸だった時代が、昭和の初めから第二次世界大戦の終結に至る、軍部独裁政権の時代である。

昭和に入ってから、軍部が徐々に政権の中枢を占めるようになったが、五・一五事件や二・二六事件などを通じて反対勢力を駆逐すると、軍部独裁政権はもはや制御が効かず、暴走を始めるようになった。

昭和天皇は軍部の独裁には不快感を持っておられたし、アメリカとの戦争にも反対であった。しかし実質的にに象徴的な存在であられた昭和天皇には、それを防ぐすべはなかった。

また、一般の日本国民も、軍部が暴走して無謀な戦争に突き進んでゆくことに対して、それが天皇陛下のご意志だと信じ込まされて、兵士として戦場に駆り出され、召集されなかった人も、終戦までの不幸な時代を送らざるを得なかったのである。

左翼勢力の反対運動と昭和天皇

終戦を迎えると、それまでの軍部の宣伝を正しいと信じて戦争に協力してきた人たちの間に、絶望感と虚無感が生まれ、そして戦前・戦中の価値観は全て否定され、「今まで信じてきたものは何だったのか?」という価値観の混乱が生じた。

すると今度は左翼勢力が、価値観の混乱を利用して、日の丸・君が代反対、天皇制廃止などの主張を繰り広げるようになった。

彼らの主張は、わからないでもない。

軍部の中枢勢力は、皇室の権威を笠に着て、自らの暴走を正当化した。

昭和天皇も、反対しておられながらも、それを止めることができなかった。

しかし一般の国民にとっては、それが本当に天皇のご意志なのか、軍部が暴走しているだけなのか、見極めるのは不可能である。

本当に天皇陛下のご意志で戦争に引きずり込まれたとするなら、天皇陛下が国民を不幸にしたことになり、左翼勢力の主張も、もっともである。

戦後の一時期、左翼勢力の主張はある程度の共感を得た。

しかし、日の丸・君が代反対、天皇制廃止などの主張は、結局、広く日本人全体の共感を得るまでには至らなかった。

それは、不幸な一時期はあったものの、長い日本の歴史を通じて皇室が日本人の心の拠り所であったからであり、何か懐かしく、また神聖なものを求めたときに、皇室が身近な存在であったことが一因と、筆者は思う。

そしてまた、昭和天皇のお人柄も、大きく国民の共感を呼び起こした。

戦後まもなく日本に進駐してきたアメリカのマッカーサー元帥は、当初天皇制を廃止するつもりであった。

マッカーサー元帥は、それまでの歴史から、戦争に敗れて自らの立場が危うくなった国家元首たちが、身の安全を求めて海外に逃亡する例を多く知っていた。

例えばフランス革命のとき、フランス王ルイ16世は国外に逃亡しようとして民衆に捉えられ、処刑された。

第一次世界大戦に敗れて革命が勃発したドイツの皇帝ウィルヘルム2世は、オランダに亡命した。

マッカーサー元帥は昭和天皇に初めて会見した際、昭和天皇もこれらの国家元首と同様なことを口にするのかと思っていた。

しかし、昭和天皇の口から出たのは、「自分はどうなっても良いから、苦しんでいる国民たちを助けて欲しい」という言葉だったのである。

この昭和天皇の言葉に感銘を受けたマッカーサー元帥は、天皇制を存続させる方向に、方針を転換した。

昭和天皇は幼少の頃、乃木将軍などから、「臣民の幸福のために生きる君主」という帝王学を学ばれたが、身をもってその教えを示されたのである。

このことが徐々に知られてゆくにつれ、昭和天皇のお人柄を慕う人々が増えていった。

現代における皇室

そして現代における皇室であるが、筆者が思うに、長い日本の歴史の中でも、今が一番自然に多くの日本人が皇室を敬愛し、愛国心も自発的に形成されている時代ではないかと思われるのである。

かつての為政者たちは、自らの正統性を主張するために皇室を利用したし、特に明治以降の為政者は、強制的に日本国民に皇室の権威を振りかざした。

しかし現在の日本国民は、強制されるのでなく、自然に皇室を敬愛している。

これは、長い歴史を通じて形成されたことにもよるが、筆者が思うには、平成の天皇陛下、現上皇様ご夫妻の功績、その他の皇室の方々のお姿も大きいと思われるのである。

平成の時代、東日本大震災を始め、いくつかの災害が日本各地を襲ったが、上皇様ご夫妻が被災された方々を見舞いながら、腰をかがめて、被災者の方々と同じ目線でお言葉をかけられる映像が写し出された。   

日本国憲法に謳われている天皇の国事行為からすれば、被災地を訪れて人々を見舞うことは、本来の国事行為とは言えないものである。

しかし、この映像を目にした多くの国民は、皇室を敬愛する思いを強くしたであろう。

また、今上天皇・皇后ご夫妻や秋篠宮殿下ご夫妻も仲睦まじいご家庭を築かれていて、模範的な家庭の姿を示しておられる。

イギリス王室では、現エリザベス女王は問題ないが、その子供たち、チャールズ皇太子や兄弟たちの家庭に不倫や離婚の問題があり、残念ながら、多くの国民の心が王室を離れつつある。

それと比較すると日本においては、皇室に対する国民感情が、きわめて良好であることがよくわかる。

こうして、長い日本の歴史を辿ってきてみると、日本国民と皇室双方にとって、現代は極めて幸福な時代ではないかという気がする。

現在皇室は、なかなか男子が生まれなかったことによる皇位継承問題などを抱えている。

それをどのように解決するのか、筆者にはまだわからないことであるが、皇室の存続が今後も日本人の幸福につながるのであれば、ぜひとも末永く皇室が続いていくことを願うばかりである。