自分らしく生きよう ~坂本龍馬の言葉に学ぶ~
日本の歴史の中で、幕末から明治維新にかけて、その後の日本の歴史を大きく変えた志士たちが活躍した時代がある。
歴史のファンの方々はもちろんそうだが、それほどのファンでなくとも、この時代と活躍した志士たちが好きな人は多いであろう。
勝海舟、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、板垣退助、吉田松陰、高杉晋作等々・・・・。
その中に、今回取り上げようとする坂本龍馬がいる。
並みいる志士たちの中で特に誰が好きかと尋ねられたら、坂本龍馬が好きだという人は多いと思うが、筆者もその一員である。
その坂本龍馬が遺した有名な言葉で「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」という言葉がある。
今回は、坂本龍馬のこの言葉が、現代の我々に何を問いかけているかについて、考えてみたい。
坂本龍馬の行動と業績
坂本龍馬がどんな事を成した人物か、歴史ファンならば、よくご存じであろう。
土佐の下級藩士の家に生まれ、19歳のとき剣術修行のために江戸に出て、桶町千葉道場で剣術に精進していたときに、ペリー艦隊の来航を目撃する。
ペリー来航は日本を泰平の夢から呼び覚まし、外国勢力からいかに日本を防備するかが、緊急の課題となった。
龍馬も土佐藩下屋敷守備のために召集されたが、このときはまだ、他の多くの志士たちと同じく、異国は打ち払うべしという考えであった。
ペリー来航はさらに、全国の諸藩にも様々な影響を及ぼし、尊王攘夷の機運が高まる中で、土佐藩でも武市半平太を中心に土佐勤皇党が結成される。
土佐勤皇党では、もはや土佐藩だけでなく、諸藩の志士たちと連携して尊王攘夷の運動を展開すべきという考えが広まり、志士たちが次々に脱藩して、京都を始め各地で活動を始めるが、その中で1862年、龍馬も脱藩に踏み切ることとなる。
当時脱藩とは藩内では大きな罪であり、当人はもちろん、その家族も連座で罪に問われる可能性があり、大きな冒険であった。
脱藩後、江戸へ向かった龍馬は、松平春嶽から勝海舟を紹介されるが、この勝海舟との出会いが、龍馬の運命を大きく変えることとなる。
まだ尊王攘夷の考えを持っていた龍馬にとって、開国論者の勝海舟は、異国に媚びを売る売国奴に思えた。
そのため、勝の返答次第では、その場で勝を斬ってしまおうと考えていたほどであった。
しかし勝は、龍馬が思っていたような売国奴ではなかった。
その2年前に咸臨丸でアメリカを見てきた勝は、実際に西洋文明を肌で感じて、日本を近代国家に生まれ変わらせ、強力な海軍を創設して、日本を外国勢力から守るために、結果的に開国が必要というのが、勝の考えだったのである。
また勝は幕府の役人でありながら、幕府の将来性を見限っており、日本を生まれ変わらせるためには、新しい政治の仕組みが必要と考えていた。
その勝の考えを聞かされた龍馬は大いに感激して、勝の弟子となり、その後の様々な活動を展開してゆくのである。
勝が幕府からの認可を得て、神戸海軍操練所が設立されると、龍馬はその先頭を切って航海技術の習得に精を出す。
続いて、現在の株式会社の先駆けとなる「亀山社中」という商社を設立し、商業活動を通じて世の中を変革しようとする。
また、最終的に幕府を倒して新政府を作るためには、当時敵対関係にあった薩摩藩と長州藩が手を組むことが必要と考えた龍馬は、西郷隆盛と桂小五郎を説得して、有名な薩長同盟を締結させた。
さらに、土佐藩主の山内容堂から今後の新政府について意見を求められた際に、後に「船中八策」と呼ばれる草案を示し、それが大政奉還へと繋がってゆく。
精力的に日本の近代化のために奔走した龍馬であったが、明治維新を目前にした1867年12月10日、京都に滞在中に数名の刺客に襲われ、33歳の短い生涯を閉じた。
龍馬が生きた期間は短かったが、その後の日本に及ぼした影響を考えると、同時代を生きた志士たちの誰にも増して、その功績は燦然と輝いている。
龍馬の言葉が発せられた背景
そして、冒頭に挙げた龍馬の言葉「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」であるが、意味としては、「自分を良く知らない世間の人は、好きなように何とでも言ってくれ。自分がすることの本当の意味を知っているのは、自分だけだから」といったところであろう。
まさに、龍馬が駆け抜けた人生そのものを、示しているような言葉である。
「五・七・五・七・七」の和歌の形式で、自分の信条を述べたものである。
実はこの言葉が詠まれたのは、江戸へ剣術修行に出発する前、まだ十代の少年の頃だったというから驚きである。
有名なエピソードだが、幼少期の龍馬は甘えん坊で泣き虫であり、10歳くらいまで寝小便が治らなかったという。
龍馬の行く末を心配した勝気な姉が、龍馬を厳しく鍛えて、徐々に男らしくなっていった。
また当時土佐藩は上級武士と下級武士の間に大きな身分の差があり、下級武士の家柄だった坂本家は、上級武士から屈辱的な扱いを受けたという。
おそらく龍馬の中に、様々なコンプレックスがあったのであろう。
それを跳ねのけて、ひとかどの人物になってやる、という決意が伝わってくる言葉である。
まだ少年だった龍馬は、当然、自分が将来どのような道を歩むのか知る由もない。
しかし、その言葉は、龍馬の運命を大きく左右した。
重大な決断を下す際には、人の評価は一切気にせず、常識や人情にとらわれず、自分が本当に納得できる決断をした。
幕末から明治維新にかけて、多くの志士たちが活躍したが、当時の大多数の人は、世の中が移り行くのを、客観的に眺めていただけである。
龍馬のような行動を起こしたのは、ほんの一握りの群れである。
脱藩という行動一つとっても、常識や人情にとらわれていては実行に移せない。
脱藩によって自分が罪に問われれば、遺された家族も同罪に問われる可能性もあり、肩身の狭い思いをしなければならない。
龍馬も当然、家族のことが気にならないはずはない。
しかし、日本の将来を本気で憂いているのであれば、迷わずに行動すべきである。
結果的に、龍馬のような志士たちの活躍が明治維新をもたらし、近代国家日本を作り上げていったのである。
十代の頃に詠んだ龍馬の言葉が、その生涯を貫く信条となり、その後の日本を大きく動かしたことを思うとき、この言葉の持つ重みが、ずっしりと伝わってくる。
龍馬の言葉が我々に問いかけるもの
さて、龍馬の言葉について述べてみたが、この言葉が現代の我々に何を問いかけているかについて、考えてみたい。
日本人の国民性は、人との調和を大切にするのが特徴である。
できる限り周囲の人を思いやり、親切にし、あまり争いを好まない。
周囲の人と、できる限り合わせて生きようとする。
諸外国から見た場合に、日本人の美徳として映る部分でもある。
ただ、他人からの批判を恐れて、あまり冒険をしようとしない一面がある。
そして、周囲の人と比較して、あまりに自分の行動が違う場合に、本当の自分を押し殺してしまったりする。
日本の文化が「恥の文化」と言われるゆえんである。
しかし、自分の人生は、最終的には自分で決断しなければ、誰も責任を持ってくれない。
本当に自分のやりたいことがあるなら、人からの批判を恐れて実行しないでいたら、人生に大きな悔いを残すことになる。
龍馬の言葉は、本当に自分のやりたいことがあるなら、人の目は気にせず、まずは実行してみよと言っているのである。
日本の経済も、かつての高度経済成長期からバブル崩壊を経て、デフレ経済が長く続いている。
安部首相の頃に長期の経済回復と言っていたが、高度経済成長期と比べると、各企業ともギリギリで収益を上げている状況で、決して楽な経営ではない。
働いている人々も、非正規労働者が多くなり、生活が厳しい人も多い。
若者の雇用情勢も厳しく、フリーターになったり、絶望して引きこもりになってしまう若者もいる。
昔は将来に対してバラ色の夢を描く人が多かったが、閉塞感が募る昨今、夢をあきらめて現実的に日々を送っている人も多いのではなかろうか。
しかし、人生を本当に充実したいものにするなら、夢を持つことは必要と、筆者は思う。
どんな人にも、必ずその人なりの持ち味、強みがある。
また、この分野ならば、どんなに努力しても苦労と思わないという、その人に向いている分野も、必ずあるはずである。
それをぜひ、見つけ出して欲しい。
そして、「人が何と言おうと、これが自分の持ち味だ」というものに、人生を賭けるべきと思うのである。
夢をあきらめないこと
それから、夢を追い続けることは、時として踏ん切りをつけなければならないこともある。
「ここまでやってダメだったら、見切りをつける」という決断をしなければならない場合もあろう。
その場合は、本当にそこで見切りをつけて納得できるか、後悔はないかと自分に問いかけて、納得できるならば、あきらめても良いと思う。
しかし、納得できていない部分があるなら、最後まで夢を追い続けるべきと、筆者は考える。
ここで、夢をあきらめなかったことが、最終的に大きな奇跡を呼び込んだ人を、二人挙げてみたい。
一人は、陸上競技の短距離走の第一人者、朝原宜治選手である。
彼は、100メートル走を中心とする短距離走で、長く第一線で活躍していたが、34歳のとき、体力の衰えを感じ始め、いったん現役を退いた。
しかし引退してみて、競技に出ない日々が始まったとき、自分の中に競技への情熱がまだ残っていることを感じ、燃え尽きるまでやってみたい欲求にかられて、再び現役復帰したのであった。
そして再び競技に戻って来た朝原選手に、運命の女神は、劇的な大舞台を用意していたのである。
それは36歳で迎えた、2008年の北京オリンピック、100m×4のリレーであった。
朝原選手はその日本チームのアンカー、第4走者として、決勝に出場した。
それまで日本は、陸上競技の短距離走では、オリンピックと世界選手権を通じて、一度もメダルを獲得したことはなかった。
その決勝のレースで、朝原選手はアンカーとして第3位でゴールを駆け抜け、日本チームは史上初めて、銅メダルを獲得したのである。
これで有終の美を飾った朝原選手は、今度は迷いなく現役を引退し、後輩の指導に当たっている。
もう一人は、ケンタッキー・フライド・チキンの創業者、カーネル・サンダースである。
カーネル・サンダースがケンタッキー・フライド・チキンを創業したのは、何と65歳のときである。
彼は、飲食店のオーナーを長くやっていたのだが、その経営は不運続きだった。
彼が飲食店のオーナーをしていた時代は、第二次世界大戦の前後の時代で、アメリカ経済が大きく成長する時期であり、アメリカ全土に次々に新しい道路が開通する時代であった。
彼が飲食店をオープンすると、しばらくの間は繁盛するのだが、新しい幹線道路が開通すると、車の人の流れが変わって、新しい道路の方へみんな流れていってしまい、次第にさびれて、店を畳まざるを得なくなってしまう。
そこで、再び新しい幹線道路沿いに次の店を出すのだが、また別な方向に次の新しい幹線道路が開通して、車と人の流れが変わって、再び店を畳むといった具合で、車と人の流れに翻弄されて、どうしても長く店を続けることができなかった。
しかし、「自分の作るフライドチキンは、誰にもまねることのできないおいしさがある。これを広める夢はあきらめられない」と考えたサンダースは、自分が作ったフライドチキンをワゴン車に積んで全米を回って売り歩き、そのおいしさを広めた。
そして、フライドチキンの製法を教える代わりに、チキン1本が売れたら5セント受け取るというフランチャイズビジネスを始め、これが大ヒットして、現在のケンタッキー・フライド・チキンとなっている。
このビジネスが成功したとき、サンダースは65歳になっていた。
そして、90歳で天寿を全うするまで、サンダースは第一線で働き続けたのであった。
この二人の例を見ると、情熱が残っているなら、夢は最後まであきらめないことが重要に思える。
もちろん、あきらめずに挑戦を続けて、それが100%成功する保証はない。
しかし挑戦しなければ、100%成功はあり得ないのである。
一度しかない人生、ぜひとも悔いのないように生きたいものである。
最後に
今回は、坂本龍馬の言葉から書き起こして、朝原宜治選手やカーネル・サンダースの話まで広げたが、いずれも、自分の信条をしっかり持ち、それを最後まで貫いた。
途中であきらめたり、安易な道を選ぶこともできたが、本心に納得できる道を選んだわけである。
今これを読んでいる読者諸氏の皆様にお伝えしたいのは、あなたなりの悔いのない人生を生きて欲しいということである。
別に龍馬のような、大業を成すような次元のことでなくても良い。
仕事であなたなりの成果を出すことでも良いし、趣味に打ち込むことでも良い。
この閉塞感の多い現代、本領を発揮できておらず、なかなか幸福感を感じられない方も多いと思う。
そんな中で、龍馬の言葉が、少しでもあなたの人生を前向きにし、幸福感を感じられるようにしてくれることを、願っている。
60代男性、神奈川県横浜市在住。会社員として仕事をする傍ら、これまでの人生経験と様々な書物を元に、歴史・国際政治・社会問題などを、独自の視点で分析したエッセイを執筆。今後の日本人および世界人類が、幸福に生きられる方策について提言、近い将来本格的なエッセイストを目指す。趣味は音楽、学生コーラスとギターの経験あり。家族構成は妻と娘一人。