何故日韓関係が難しいのか ~東アジア地域における米ロ(米ソ)利害対立の影響~
今年は、2021年である。
第二次世界大戦が終結から、76年になる。
その第二次大戦時において、加害者だった国と被害者だった国の代表が、ドイツとフランス、そして日本と韓国である。
しかし戦後76年が経って、その2国間の関係を見てみると、ドイツとフランスは、共にEUを牽引する国同士として、極めて関係が良いのに対して、日本と韓国は、なかなか関係が改善されない。
どうして日韓関係は、いつまでも関係が良くならないのであろうか?
これにはいろいろな原因があるが、筆者が考えるには、その原因の一つとして、朝鮮半島の南北分断の問題があると思われる。
そして、その南北分断が成された背景には、東アジア地域を巡る、米ロ(米ソ)の利害対立の問題がある。
このことについて、少し考察してみたい。
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米ロ(米ソ)の対立は江戸時代末期の頃より
さて、アメリカとロシアの対立の構図が、いつ頃から始まったかであるが、筆者は江戸時代末期くらいからと考えている。
19世紀に入った頃から、アメリカは太平洋に進出し始めた。
アメリカは今でこそ捕鯨反対の立場だが、当時は鯨油を採るために、さかんに捕鯨船を出していた。
そして、主に太平洋でマッコウクジラを採っていたのだが、捕鯨船に水や石炭、さらに食料を積み込むための、寄港地を必要としていた。
彼らは、できれば太平洋の向こう側、東アジア地域に拠点を作りたかった。
1853年に、アメリカのペリー艦隊が浦賀に現れたが、彼らの第一の目的は捕鯨船の寄港地を確保することであり、この目的に従って、日米和親条約が結ばれたのである。
捕鯨船の寄港地を確保すると、次にアメリカは、日本との貿易を望んだ。
これが日米修好通商条約である。
そして日本を起点に、東アジア地域の各地に拠点を広げようとしたのであった。
一方ロシアは、首都をサンクトペテルブルグに置きながらも、シベリアをどんどん東へと進み、18世紀までには東アジア地域の北方まで達していた。
そして江戸時代後期にはたびたび日本近海にも現れ、通商を要求したり、時にはゴローニン事件のような問題を引き起こしていた。
ロシアも本格的に東アジア地域に拠点を作りたかったが、一つ大きな問題があった。
それはロシアの進出したシベリア地方があまりに寒く、冬になると港が凍りついて、船が出せなくなることである。
そのため、シベリア地方を南下して、一年中凍らない不凍港をいかに手に入れるかが、ロシアの悲願となった。
そこに立ちはだかったのは、当時中国大陸を統治していた清帝国である。
ロシアと清は17世紀頃から、国境を巡ってたびたび軍事衝突していたが、18世紀、乾隆帝の頃までは清の方が軍事的に優勢で、ロシア軍はたびたび打ち破られた。
19世紀に入ると清の国力は衰え始め、今度はロシア軍が清の軍隊を打ち破るようになった。
そして、ロシアは満州の沿岸を南下し、1860年、ついに以前からの悲願である不凍港、ウラジオストクを手に入れたのである。
そしてウラジオストクを拠点にして、一年中船を出せるようになったロシアは、本格的に東アジア地域への進出を始めた。
それはまさに、アメリカのペリー来航とほぼ同時期である。
ペリー艦隊が浦賀に来た幕末の頃は、西欧列強が世界各地で植民地争奪戦を繰り広げた、帝国主義全盛の時代であった。
列強勢力は、東アジア地域にも貿易の拠点、あわよくば植民地を獲得しようとした。
その中でも中心的な国が、イギリスとフランス、さらにアメリカとロシアであった。
アメリカにとってイギリスとフランスは、自由民主主義という、同じ価値観を共有する、言わば「話せば分かる」間柄である。
それに対してロシアは、皇帝専制主義の、何を考えているかわからない不気味な相手である。
また両国の国民感情も、アメリカ人はロシアが大嫌い、ロシア人もアメリカが大嫌いである。
アメリカも、太平洋の向こう側の東アジア地域に拠点が欲しい。
またロシアも、寒いシベリアから南下して、東アジアの少しでも暖かい地域に拠点を広げたい。
こうして、東アジア地域に本格的に進出することになったロシアとアメリカの利害関係が、対立するようになった。
東アジア地域を巡るアメリカとロシアの思惑そして日本
こうして近代に入って、東アジア地域を巡って、アメリカとロシアは対立するようになったが、特にそれが顕著に現れたのが、朝鮮半島においてであった。
西欧列強は19世紀後半、東アジアの各地で、それぞれに勢力を拡大しようと、しのぎを削っていた。
東アジアの各国は、下手をすると植民地にされかねない危機を迎えていた。
日本は明治維新に成功して、うまく危機を乗り越えたが、清王朝の勢いが衰えた中国は、列強の食い物にされた。
そして朝鮮王朝も勢力が衰え、植民地化の危機を迎えつつあった。
19世紀の末、朝鮮半島に手を伸ばしていたのはロシアと、日清戦争に勝って大陸に進出しようとしていた日本である。
朝鮮は当時自国の力で独立を保つのが難しくなり、ロシアか日本か、どちらかの植民地になりそうであった。
そして、朝鮮半島を巡って両国が軍事衝突したのが、日露戦争である。
この状況を見て、アメリカは日本に加担した。
アメリカにとっては、ロシアが朝鮮半島を獲得することは、東アジアに大きな拠点を獲得することを意味し、それはどうしても避けたい最悪の事態である。
それに対して日本はペリー来航以来関係が良く、東アジア地域では頼りになる存在になっていた。
仮に朝鮮がどちらかの植民地になることが避けられないとすれば、日本が獲得するほうがはるかにましである。
それで、日露戦争が始まると、アメリカは日本に対して経済的に支援し、戦争がやや日本優勢に終結すると、講和条約の締結に当たって、当時のアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトは、少しでも日本に有利な講和になるよう後押しした。
日露戦争に勝利して、朝鮮半島からロシアの勢力を排除すると、日本はすぐさま朝鮮を支配下に置こうとした。
アメリカとしては、朝鮮が日本の植民地になることは最善ではなかったが、ロシアの植民地になる最悪の事態は避けられた。
そして、アメリカから半分お墨付きをもらったような形で、日本は朝鮮を植民地化していった。
日露戦争が終結した1905年に、日本は、朝鮮を植民地化する最初の条約を結ぶと、徐々に支配の度を強め、第二次世界大戦に突入して敗色が濃くなるに従って、過酷な植民地政策が執られるようになっていったのである。
第二次世界大戦後のドイツとフランス、日本と韓国
ここまで前置きがずいぶん長くなったが、いよいよ本題に入る。
最初に、第二次世界大戦時において加害者だった国と被害者だった国の代表が、それぞれドイツとフランス、日本と韓国であると述べた。
筆者は既に60歳を迎えて、第二次世界大戦後の歴史を良く知っているが、若い方の中には終戦後の世界をあまりご存じない方もおられると思うので、第二次世界大戦が終結した1945年から、少し詳しく解説してみたい。
1945年にヨーロッパではドイツが無条件降伏し、その国土は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連(ロシア革命後に成立した国家、1991年まで存続、正式名称はソビエト社会主義共和国連邦)の4ヶ国によって、分割統治されることになった。
そして、ソ連が支配した地域は社会主義の東ドイツ(ドイツ民主共和国)、アメリカ、イギリス、フランスの支配した地域は自由主義の西ドイツ(ドイツ連邦共和国)として、2つの独立した分断国家となった。
さらに東ドイツの首都ベルリンは、社会主義の東ベルリンと自由主義の西ベルリンに分かれ、その2つの間に「ベルリンの壁」と呼ばれる高い壁が築かれ、人々の行き来ができなくなった。
壁の向こう側に親族のいるような人は、何とか壁の向こう側に行こうとして秘密警察に逮捕され、銃殺されたりした。
こうして、1991年に再び統一ドイツとなるまで、ドイツ人は民族分断の悲劇を味わった。
すると、第二次世界大戦中にドイツに占領され、苦しめられていたフランス人の中に、「ドイツ人も苦労したな。」という、ドイツ人に同情する余地が生まれた。
そして、フランス人のドイツ人に対するわだかまりが解け、現在EUを牽引する、仲の良いパートナーとなっているのである。
それに対して東アジア地域では、1945年に日本が無条件降伏すると、朝鮮半島は38度線を境に、南側をアメリカが軍事占領し、北側をソ連が軍事占領する事となった。
やがて朝鮮は南側が自由主義の韓国(大韓民国)と、北側が社会主義の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)という、2つの独立した分断国家となった。
東アジア地域において民族分断の悲劇を味わったのは、加害者だった日本でなく、被害者だった韓国だったのである。
そして民族分断は、さらに大きな悲劇を生んだ。
1950年に、突如として北朝鮮は38度線を越えて南側に軍事侵攻し、1953年まで3年間にわたる朝鮮戦争となったのである。
この、同じ民族同士が血を流し会う朝鮮戦争によって、朝鮮半島は、日本が第二次世界大戦によって焼け野原となった以上に、国土が荒廃した。
その朝鮮戦争の間、アメリカを始め、国連軍の中継地点となった日本は、戦争継続のために多くの物資が必要とされたため、その戦争特需によって、空前の好景気に沸いた。
日本は瞬く間に戦後の荒廃から立ち直り、高度経済成長期を迎えるのである。
このことは、韓国人にしてみれば、「悪い事をしたのは日本なのに、なぜその日本が高度経済成長の恩恵を受け、被害者の我々が、民族分断の悲劇を味わわなければならないのか?」と言いたくなるような心境であったろう。
これは何とも、歴史的な皮肉であった。
そして、朝鮮半島の南北分断は、今なお続いているのである。
この朝鮮半島の南北分断は、日本のせいではないので、我々には責任の取りようがない。
しかし韓国人の中には、日本人に対して、どうしようもない屈折した気持ちが生まれた。
ヨーロッパに対して東アジア地域では、被害者側の韓国が民族分断の悲劇を体験したことによって、屈折した感情が生まれ、いまだに尾を引き続けている。
筆者は、この問題が、日韓関係が改善しない大きな要因だと思うのである。
何故このような状況になったのであろうか?
ここに東アジア地域における、アメリカとロシア(ソ連)の利害の対立があった。
日本と韓国の運命を決めた米ソ対立
さて、第二次世界大戦後の東アジア地域の米ソ対立を、詳しく述べることにする。
アメリカは日本と戦争していたが、ペリー来航以降、それまでの日本との関係は良好だったことから、いずれは日本を味方に引き入れたいという展望があった。
それに対して、第二次世界大戦では同じ陣営だったソ連を、それまでの行き掛かりから、油断のならない相手として警戒していた。
大戦当時のアメリカ大統領、フランクリン・ルーズベルトは、ソ連に対して融和政策を取り、当時のソ連の最高指導者であるスターリンの思う壺にはまりそうであった。
第二次世界大戦の終盤、連合国の間では、日本をアメリカ、イギリス、中国、ソ連で4分割統治する案が出ており、これが実行される可能性もあった。
しかし大戦が終結する寸前の1945年4月12日、ルーズベルト大統領は急病のため死去し、代わって副大統領のハリー・トルーマンが大統領となった。
トルーマンは徐々にソ連に対して警戒を強めていく。
その1945年の8月、アメリカは広島と長崎に原子爆弾を投下し、ヤルタ協定に基づいて、同じタイミングでソ連も日本に対して参戦した。
そしてソ連は、満州から朝鮮半島へ侵攻、さらに千島列島をどんどん南下してゆく。
千島列島を南下して国後島などの北方四島まで来たとき、北海道はもう目の前であった。
ソ連としては、このまま北海道まで侵攻したいところであったが、アメリカはそれを頑として跳ねつけた。
なぜなら、ソ連に北海道まで侵攻されてしまうことは、太平洋に進出するための軍事拠点を作られてしまうことを意味するからである。
アメリカとしては、これを絶対に認めるわけにはいかなかった。
そして日本の本土は、アメリカが単独で占領することとなった。
それに対して大陸方面では、満州から朝鮮半島まで攻め込んできて、ソ連が権益を要求したとき、日本への侵攻を跳ねつけた代わりの妥協案として、38度線から北側の軍事占領を許可したのである。
そして38度線の北側が後の北朝鮮となり、南側が韓国となって、朝鮮戦争、今に続く民族分断となっている。
これが、当初分断される予定だった日本がその運命から逃れ、代わって朝鮮半島が分断されることになってしまった事情である。
このようにして、ヨーロッパでは第二次大戦時に加害者だったドイツが東西分断の悲劇を体験することにより、被害者だったフランスと和解の道が開け、東アジアではそれと反対に、被害者だった韓国が南北分断の悲劇を体験することにより、日本との関係を、いつまでも難しくしている。
そしてその原因は、米ロ(米ソ)の歴史的な対立が生み出した、皮肉な運命であった。
今後の日韓関係をどうすべきか
さて、筆者は日韓関係がなかなか改善しない要因として、朝鮮半島の南北分断の問題を取り上げたが、これを改善するために、どうしたら良いであろうか?
昨今の日韓関係を見てみると、両国政府とも双方の提案を拒絶し、特に韓国側が政権が代わるたびに、日本との合意事項を何度も反故にするのが目立つようである。
読者諸氏の方々にも、そうした韓国の態度に関して辟易しておられ、「それならこのまま絶交で良いではないか。」とお思いの方も、おられるかも知れない。
しかし筆者は、この状況は結局、両国民ともに不幸であると考える。
南北分断は確かに日本の責任ではないが、しかし、韓国の人たちがどのような気持ちで日本のことを思っているか、それを推し量ることが必要であると思う。
そして、双方に誤解があるとすれば、腹を割って本音をぶつけて話し合い、早く誤解を解かなければならない。
政府間の話し合いで解決できれば、一番好ましいのだが、政府同士では、どうしても国家としての対面が邪魔をするようである。
今の文在寅大統領を見ていると、日本の提案に対して妥協することは、一切なさそうである。
筆者が歴代の韓国の大統領を振り返ってみると、日本に融通をきかせてくれたのは、金大中大統領であった。
金大中氏は、懐の深い、包容力のある政治家であった。
金大中氏のような人が今も韓国の大統領であれば、日韓関係ももっと改善するのにとも思うが、それは無い物ねだりである。
文在寅大統領は原則一点張りの人だが、その主張は果たして韓国の一般の国民の本音に一致しているのか、筆者には疑問である。
韓国の一般国民の中に、きっと日本との関係改善を望む人は、必ずいると思っている。
いずれにせよ、日韓両国のぎくしゃくした関係を、どこかで早く改善しなければならない。
政府間で難しければ、民間交流からでも、何とか解決の糸口を見つけたいものである。
早く日韓関係が改善することが、お互いの国民にとって幸福であると、筆者は信ずるものである。
60代男性、神奈川県横浜市在住。会社員として仕事をする傍ら、これまでの人生経験と様々な書物を元に、歴史・国際政治・社会問題などを、独自の視点で分析したエッセイを執筆。今後の日本人および世界人類が、幸福に生きられる方策について提言、近い将来本格的なエッセイストを目指す。趣味は音楽、学生コーラスとギターの経験あり。家族構成は妻と娘一人。