中国やロシアでは何故民主主義が根付かないのか ~大国における少数民族問題~

21世紀を迎えた現在、世界には国連加盟国が193か国あり、またバチカンや台湾などを含めると200以上の国家が存在するが、その多くが民主主義政体である。

民主主義政体は誰もが知る通り、国民の選挙によって代表者が選ばれ、その代表者が民意を背景に政治を行う制度である。

日本の皇室や各国の王室も、昔は国を統治したこともあったが、現在ではほとんどが政治に関わっておらず、実質的には民主主義で政治が運営されている。

ところが、日本のすぐ近くに、なかなか民主主義が根付かない国がある。

代表的なものは北朝鮮、そして中国とロシアである。

このうち北朝鮮は、金日成主席を初代とする王家が支配するような、独裁体制である。

たぶんこの国では、革命かクーデターでも起きない限り、体制が変わることはないであろう。

それに対して、中国やロシアでは、国の指導者が入れ替わっているにもかかわらず、なかなか民主主義が根付かない。

中国では共産党の一党独裁体制であるし、ロシアでは共産党の支配が終わったものの、プーチン大統領が権力を独占している状況である。

どちらの国においても、人権弾圧の問題があり、ときどきニュースで報道される。

政府に対して抗議の声を上げる人々もいるが、多くの国民が仕方ないとして黙っているため、権力の独占が続いている。

何故中国やロシアでは、民主主義が根付かないのであろうか?

これには、少数民族問題が影響していると、筆者は考えている。

今回はこの問題について解説し、民主主義についても、深く考察してみたい。

中国とロシアが大国となった経緯

さて、中国とロシアは世界地図で見てみると、すぐに目立つほど広大な国土を有しており、また多くの人口を抱えている。

そして、両国とも多くの少数民族が住んでいるが、この少数民族たちは、かつて中国とロシアが国土を拡大してゆく際に、征服されたものである。

武力をもって服従させられたため、その少数民族たちは中央政府に対して、不信感と屈折した感情を抱いている。

中央政府にしてみれば、いつ反乱を起こさないとも限らない、体内に爆弾を抱えているようなものであり、このために強権を発動しないと安心できない状態になっている。

ここで、中国とロシアが領土を広げ、大国となった歴史的経緯を振り返ってみよう。

中国では何度か王朝が交代していたが、17世紀始めに清王朝が中国本土を制圧した時点では、まだ領土は現在の半分ほどで、東シナ海と南シナ海に面した地域が文明の発達した地域であり、西側の奥地はどこの国にも属していない、少数民族の住む未開の土地であった。

清王朝の歴史を見ると、17世紀から18世紀にかけて、康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代に亘る全盛期を誇った時代に、清帝国は奥地へどんどん軍事侵攻して領土を広げた。

チベット族、ウイグル族を始めとする少数民族たちは、まだ国家という明確な概念もなく、先祖からの伝統に従って、牧歌的な未開社会を営んでいた。

彼らにしてみれば、実に穏やかな、平和な時代であった。

それが突然、文明化された軍隊の侵攻を受け、服従させられ、税を徴収されるようになったのである。

彼らにしてみれば、清帝国による征服は、とんでもない災難であった。

そして、彼らの住んでいた土地は、清帝国の領土に組み入れられることになったのである。

清帝国は乾隆帝の時代にほぼ征服を終え、今の中国の領土を確保した。

一方ロシアは16世紀、その前身であるモスクワ大公国のイヴァン4世がツァーリ(皇帝)を名乗った1547年には、まだその領土はヨーロッパ地域に限られていた。

だがそこから毛皮を求めて、ウラル山脈を越えてシベリアに進出を始めると、短期間のうちにシベリアを横断し、17世紀には、既にカムチャツカ半島まで達して、清帝国と国境を接するまでになった。

ヤクート族、チュクチ族など、ロシアの当時のコサック軍に激しく抵抗する民族もいたが、シベリアという広大な土地にわずかな人口しかいなかったため、多くの少数民族は、あっという間に征服されてしまった。

こうして中国もロシアも、広大な領土に多くの人口、そして多くの少数民族を抱えた大国となったのである。

中国とロシアの不都合な事情

さて、中国とロシアに民主主義が根付かない理由として、少数民族問題を挙げたが、それは単に多くの少数民族がいるからだけでなく、両国とも、それが不都合な事情と結びついているからである。

例えば、多くの民族がいるという点で言えば、アメリカも多民族国家である。

しかしアメリカの場合は移民によって築かれた多民族国家であり、多くの民族は、自由なアメリカに憧れて、自発的に海を渡って来た人々である。

彼らにとっては、もちろん、民族のアイデンティティは持っていて、その民族だけのコミュニティを作っているところもある。

しかし、アメリカ内にその民族だけの別の独立国を作るような動きは、皆無である。

彼らは元々、本国から自発的に出てきたわけであり、もしアメリカが嫌なら、本国に戻れば良いのである。

なので、アメリカでは民主主義にして不都合な事情はない。

このように書くと、中国とロシアが何かとても悪いことをしてきたように思えるが、実は近代市民社会になる以前、16~18世紀頃の時代は、こうした帝国主義的な手法は、世界のどの国でも行われていたものであった。

ヨーロッパでは中世から近世に差し掛かる大航海時代に、列強たちが争って世界各地に進出し、中南米やアフリカを植民地化した。

そして現地から様々な物資を略奪し、黒人を奴隷として連れ去って人身売買し、白人とは肌の色の違う人々に人権弾圧を加えた。

何も中国とロシアが、特別に悪かったわけではない。

近代市民社会になって人々の人権意識が高まり、西欧列強もかつての自分たちの仕業を反省し、植民地を独立させた。

そして、西欧列強の本国も独立したかつての植民地も、現在はほとんどが民主主義政体である。

西欧列強が植民地を独立させるのに不都合な事情がなかったのは、本国と植民地が、海で遠く隔てられていたからである。

植民地を手放しても、それは自分たちとの関係を切り離すだけであり、本国の政治体制には影響がない。

だから西欧列強たちは、人権が問題になったとき、進んで植民地を手放したのであった。

これに対して、中国とロシアは、自国内に反乱を起こしかねない少数民族を抱えている。

しかも、中央政府も少数民族の側も、相互に不信の感情を抱いている。

これでは、民主主義にしたくともなかなか踏み切れないであろう。

近代市民社会以前の時代に、自分たちと異なる民族に人権弾圧を加えていたのは、多かれ少なかれ、どこの国にも見られる。

民主主義の最先端のようなアメリカでさえ、先住民のインディアンを犠牲にして今の繁栄があるのであり、日本では江戸時代に、北海道の先住民のアイヌの人々に、過酷な支配がなされた。

ただ、民主主義に移行した多くの国では、民主主義政体にするのに不都合な事情が既に取り除かれているのに対し、中国やロシアは、未だにその事情を引きずっているという、違いがあるだけである。

中国とロシアのとるべき道

中国やロシアにしてみれば、「かつてはどこでも同じことをしていたではないか。自分たちだけが悪いのではない」と言いたい気分であろう。

しかし、今や世界では、どんなニュースもたちまち地球の反対側まで伝わってしまう。

中国やロシアで行われている人権弾圧も、ほとんど世界中に知らない人がいないくらいになっている。

国際世論は、いつまでも人権弾圧を許しておかないであろう。

筆者は、中国とロシアは、いずれ民主化の方向へ舵を切らざるを得ない状況が、必ず訪れると見ている。

それでは、民主化の方向へ舵を切るとして、具体的には少数民族に対して、どのような政策をするべきであろうか?

筆者は、大きく分けて二通りの道があると思っている。

一つは、少数民族の、分離独立を認める道である。

分離独立を願っている代表的な民族として、中国ではチベット族とウイグル族、ロシアではチェチェン族などが挙げられる。

また、同じ民族でありながら、一度自由民主主義を体験した香港の人々も、中国からの独立を希望しそうである。

分離独立を認めることは、大国としての威信と対面を重要視してきた中国とロシアにとっては、大いにそれを失うことになる。

それは、例えば清水の舞台から飛び降りるような、とても勇気ある決断をしなければならない。

果たして両国に、そのような覚悟ができるかどうか。

もう一つは、中央政府と少数民族が徹底的に納得のいくまで話し合って、形としてはその国にとどまりながらも、中央政府の干渉を限りなくゼロにし、少数民族に大幅な自治権を与える道である。

中国やロシアの領土に組み込まれる以前、少数民族たちは誰からの支配も受けることなく、それぞれの自治の仕組みを作り、社会生活を営んでいた。

それが突然大国の領土に組み込まれて、異民族の政府からの干渉を受け、税を徴収されるようになったのである。

なので、実質的に領土に組み込まれる以前の状態に戻るならば、少数民族たちも納得するかも知れない。

そのためには、中央政府の出張所はできる限り小さくして人員も最小限に減らし、運営するための予算をゼロに近づけることである。

少数民族が納める税金は、大部分が自分たちの自治政府の運営予算として使われ、自治政府からわずかな額が、中央政府出張所の運営費として渡される。

この形ならば、中央政府も何とか威信と対面を保ち、少数民族にとってもかなり願った形になると思う。

いずれにしても中国とロシアは、いつかはその二つの道のうちどちらかを、選ばざるを得なくなると、筆者は見ている。

民主主義の将来

筆者は、現在独裁体制をとっている国であっても、いずれは民主主義に移行する時期が、必ず来ると思っている。

ただ、民主主義は確かに独裁体制よりはましであるが、昨今の国際政治を見てみると、その民主主義も限界を露呈しているように思える。

古代ギリシャの哲学者プラトンは、民主主義も正しく運営しなければ、衆愚政治に陥ると警告した。

現在世界のあちこちで、現状の政治に不平不満を持つ人の短絡的な投票行動により、資質に欠けた指導者が選ばれているのではないかと感じることがある。

例えば民主主義の本場のようなアメリカである。

かつてアメリカの大統領と言えば、ワシントンやリンカーンを始め、歴史の教科書にも載っているような、偉人というイメージであった。

歴代のアメリカ大統領を見てみると、レーガン大統領くらいまでは、人格的にも優れた、多くの人の尊敬を集めるような人が選ばれているように思う。

しかし前々回のアメリカ大統領選挙では、トランプ前大統領とヒラリー・クリントン候補がお互いに誹謗中傷を繰り広げ、史上最低の大統領選挙と呼ばれた。

それによって選ばれたトランプ前大統領は、その評価は人によって様々だが、人格的にはかなり偏った傾向のある人であったことは疑う余地がない。

アメリカを始め各国の政治が、かなり衆愚政治ギリギリに陥っているように、筆者には思えるのである。

民主主義が正しく運営されるためには、結局のところ、その国の国民自体の意識が問題である。

人はだれでも自分の利益を願うものだが、広く社会全体、世界全体のことにも目を向けて、どのようにすれば周囲の人々、さらには世界の人々が幸福に暮らせるだろうか、さらには将来を担う若い世代に、どのような未来を提供できるだろうかなど、そのように考える人が増えることによって、社会全体の意識が高まると思う。

現時点では、民主主義はかなり危機的状況に思えるが、そのような意識の壁を突破することによって、再び民主主義が正しく機能するようになると、筆者は思うものである。