LGBTの人たちの人権をどこまで認めるべきか ~アメリカにおける2つの考え方~

最近、LGBTの人たちに対して、どのように接したら良いか、その人たちの人権をどこまで認めるべきか、何かと論争が起こっている。

LGBTとは何か、ご存じの方も多いと思うが、L=レズビアン(女性同性愛者)、G=ゲイ(男性同性愛者)、B=バイセクシャル(両性愛者)、T=トランスジェンダー(自分の身体の性別に違和感のある人)という、何らかの点で通常の人と違う性的傾向を持った少数者を指す言葉である。

日本では2015年に、渋谷区と世田谷区で同性パートナーシップ条例が制定され、同性愛の人たちがカップルで住む部屋を借りることに対して、不動産業者等は断ってはならないという方針が出された。

特にここ最近、自分がLGBTであることを告白する人が急増し、大きな話題になっている。

LGBTの人たちを支持する人権団体などは、「その人たちの人権を認めよ」「差別のない社会を」と主張する。

ただ、行政を含めて一般の方々においては、その人たちをどう扱うべきか、基本的な考え方が定まっていないため、対応に苦慮しているのが実情である。

日本において、この性的少数者に対する論議が始まったのはごく最近だが、アメリカにおいては、既に1970年代あたりから活発な論争があり、特にリベラル派の人々とキリスト教保守派の人々の意見が真っ向から対立し、国論を大きく二分する形になっている。

今回は、そのアメリカにおける2つの考え方を取り上げ、この問題を考えてみたい。

アメリカにおける2つの考え方の違い

さて、アメリカは自由民主主義を代表するような国である。

信仰の自由を求める人々がイギリスから移民して独立し、その後も世界中から自由に憧れる人々が次々に移民してきて、多民族国家となった。

アメリカの人々は束縛を嫌い、何よりも自由が一番と考え、自分たちの権利が抑圧されることに対しては、激しく抵抗する。

また一方でアメリカは、熱心なクリスチャンの多いキリスト教国家でもある。

キリスト教の本元であるヨーロッパでは、現在では上辺だけのクリスチャンがほとんどになっているが、アメリカでは今でも熱心なクリスチャンが多く、キリスト教の考え方を基本とする社会団体も多くあり、その主張が政治にも大きな影響を与えている。

そうした中で、日本に比べて自分の意見を活発に主張する土壌のあったアメリカでは、LGBTの人たちも早くから、自分の状況を告白することがあったため、その人たちをどう扱うべきかの論争も、早くから始まった。

そして、LGBTの人たちに対するリベラル派の人々とキリスト教保守派の人々の意見の違いなのだが、根本的には、自然観・世界観・人間観・価値観が異なるところから、その違いが生まれてくる。

リベラル派の人々は、とにかく自由第一主義である。

またリベラル派の人々は、神の存在を信じていないか、または信じていても、ほとんどこの社会のことは、人間の自由にして良いと考えている。

人生において、自由に生きることが一番大切であり、自分の人権が抑圧されることに敏感であり、他人の人権を侵すようなことは、絶対にしてはならないとする。

LGBTなど性的少数派の人たちに対しては、それも重要な個性であるから、その主張を全面的に認め、社会的に差別するようなことはあってはならないとする。

そして、その人たちも気兼ねなく暮らせる、多様性のある社会を目指すべきだと主張する。

それに対して、キリスト教保守派の人々は、この自然界・大宇宙をつかさどっておられる全知全能の神がおられるのだから、人間は神のご意志に従って生きるべきであり、性的少数派の人たちに対しては、神がその人たちをどのようにお考えか、まずそこから考えるべきだと主張するのである。

この自然界・大宇宙は、神が定められた天理の公法によって運行されている。

すると、植物は花の雄しべと雌しべによって実を結んで繁殖するし、動物はオスとメスのつがいによって繁殖するように、異なった性がお互いに支え合い、協力することによって、この自然界・大宇宙は成り立っている。

この自然界・大宇宙の中にLGBTのような存在はあり得ず、それは人間社会のみに見られる異常な姿である。

従ってLGBTの人々は、天理の公法を外れた、一種の病気のような姿であると見る。

全知全能の神は、このLGBTの人々を、どのようにお考えなのだろうか?

キリスト教保守派の人々が考える神は、全き愛の方であり、人間に対しては子供として、いつも親の愛を持って接しておられる。

しかしその一方で、自然界・大宇宙を天理の公法を持って正しく治めなければならない、裁判官のような責任も担っておられる方でもある。

神から見て、LGBTの人々は精神的な病気を抱えた不遇の子供たちである。

なので、その人々に対しては、深い憐みの愛を持って対しておられるが、その人権に関しては、天理の公法から見て、どうしても許可できない領域が出てくるとするのである。

親は子供に対して、無限の愛を持って接する。

ただ、子供が正しく立派に成長するためには、愛にも秩序がなければならない。

溺愛、盲愛は子供をダメにする。

子供を正しく立派に育てるためには、ときには厳しくしつけることも大切である。

だから、子供の主張することに対して、ダメなものはダメと、はっきり言わなければならない場合も出てくる。

親としては、心が痛む場合もあるが、最終的に何が子供の幸福になるのか、それを考えて、賢明な判断をしなければならない。

また、子供が法律に違反するようなことを望んでいるとするならば、親としては、そのような子供の要求を、受け入れるわけにはいかないのである。

できれば、LGBTの人々にも天理の公法に合った人生を歩んで欲しい。

しかし、病気でどうしても難しいのであれば仕方がないが、許容するギリギリまでその行動を容認するとしても、公法を外れた部分は、公認することはできないのである。

一番の争点は何か

さて、リベラル派の人々とキリスト教保守派の人々の観点の違いを述べてきたが、双方がLGBTの人々の人権をどこまで認めるべきかについて、何が一番の争点になっているのだろうか?

それは、同性同士のカップルを、法的な婚姻として認可するかどうかである。

通常は、男女の異性同士が結婚して家庭を築く。

事実婚で通すカップルもあるが、役所などに届け出れば法的な婚姻として認められ、その家庭は社会から様々な保護を受けられることになる。

リベラル派の人々は、LGBTの人々も重要な社会の構成員であるし、それも個性の一つであるから、同性同士のカップルも、法的な婚姻として認可すべきだとする。

そして、そうした家庭も一つの家庭の姿として、社会が容認すべきであり、それが多様性のある社会を作っていくとする。

一方、キリスト教保守派の人々は、同性同士のカップルは、天理の公法を外れた姿なので、それを法的な婚姻として認めることは、絶対にできないとする。

それを認めることは、神が公認したと同じことになってしまう。

親心としては、病気の子供に対して、できる限りのことはしてやりたい気持ちである。

LGBTの人々は、社会の中で生きづらさを感じ、通常の人と同じように生きたくともそれがどうしてもできないので、様々な悩み・葛藤を抱えている。

その気持ちには配慮したとしても、人類が今後も存続してゆくためには、本来的な家庭の姿を示さなければならない。

だから、神の立場としては、「我が子よ、申し訳ないが、それはどうしても認めることはできない」として、退けるしかないということである。

この、同性同士のカップルを、法的な婚姻として認可するかどうかを一番の争点として、リベラル派の人々とキリスト教保守派の人々は、様々なLGBTの人々の人権問題について論争している。

法的な婚姻の問題が一番だが、男女どちらのトイレを使うかとか、その場合に一般の人はどうするかとか、学校での体育の授業の際の、着替えの問題とか、男女の性別に対応が必要な職場でLGBTであることを理由に就業を断ることはできるかとか、様々な問題が付随して出てくる。

既にアメリカでは、1970年代の頃から長い論争が続いているが、なかなか結論が出ない問題になっている。

今後も続く論争

以上、LGBTの人々の人権問題について、アメリカにおいて国論を二分する2つの考え方について、解説してきた。

日本でもLGBTであることを告白する人が増えて、今後論争が活発になる可能性がある。

ただ、根拠とする考え方が、まだ定まっていない。

筆者は神の存在を信じているので、どちらかと言えば、キリスト教保守派の人々とほぼ同意見である。

この記事をお読みになっている方で、もしかしたら当のLGBTの方々がおられるかも知れない。

その方の中で、もし同性のパートナーと法的な婚姻をお望みの方がおられたなら、この記事に対してご納得いただけない場合もあると想定している。

この問題は、アメリカでも長年論争を続けながらも、いまだに結論は出ていない。

なので、現段階では、何が正しく何が間違っているかとは言えない問題である。

筆者としては、この問題を巡る論争について解説しつつ、最終的に全ての人類に幸福をもたらしてくれるような、結論が導き出されることを願う次第である。