人生の最期をどう迎えるか ~悔いのない旅立ちのために~

人は、いつかは地上を去る日が来る。

当たり前の話だが、人生にはいつかは終わりが来る。

それは、どんな人にも避けられない宿命である。

死を迎えることについて、ちょっと考えると、誰しも少しは恐れを抱くものと思う。

歴史が始まって以来、多くの人がそれを考え、死んだらいったいどうなるのか、天国とか地獄といったものが存在するのか、様々な議論があった。

今これを読んでおられる読者諸氏の皆様も、普段は人生の終わりについてあまり意識していなくても、どこかで突き詰めて考えたりされるのではなかろうか。

今回は、死後の世界は果たしてあるのか、そうだとしたら、旅立ちの日をどのように迎えたら良いのか、そのような問題について、考えてみたい。

死後の世界は存在するか

人は死んだら、果たしてどうなるのであろうか?

古来、人はそれについて悩み、様々な回答を求めてきた。

ある人は、人は死んだら骨になるだけだ、他に一切のものは残らないなどと言う。

しかし、仏教・キリスト教・イスラム教など、世界各地の様々な宗教の教えは、必ずと言っていいほど死後の世界について言及し、天国に行けるように生活すべきと教えてきた。

ただ、死後の世界と言っても、目に見えるものではないだけに、科学的に証明することはできず、どうしても信じるか信じないかの問題になってしまう。

唯物的な人が、死後の世界などあり得ない、などと言うのも、無理からぬことである。

死後の世界も、また神も、人間の目に見えるものではない。

しかし、目に見えず、手で触れることのできないものは、存在しないと結論づけることはできない。

空気も電気も、目に見えず、触れることもできないが、確かに存在しているからこそ、生物が呼吸し、生活できるのであるし、また様々な電気の作用が起こりえる。

だから、唯物的な人も、死後の世界や神が存在しないと、証明することもできないはずである。

筆者は、多くの宗教が言っていることからして、神は実在し、また死後の世界も存在すると考えている。

以前にNHKの番組で、「臨死体験」というものがあった。

事故や病気でいったん心臓が停止して、死亡と判定された人が、数時間後に息を吹き返し、その間に体験した出来事を語ったものである。

それによると、ほとんどの人が、同じような体験をしている。

自分の意識が、霊として肉体から分離し、天井から自分の肉体を見つめる。

その後、光の天使のような存在と出会い、暗いトンネルを抜けると、花が一面に咲き乱れている、美しい花園にたどり着く。

そして、その花園をずっと進んで行くと、三途の川のような場所に着き、向こう岸に、以前に亡くなった、懐かしい親族がいるのに気づく。

親族に会えたことはうれしいことだが、その親族から、「あなたがここに来るのはまだ早い。帰りなさい」と諭され、気づくと病院のベッドで目が覚めた、というものである。

生死の境を彷徨った人たちは、ほとんど同じような光景を見ている。

こうした報告からも、筆者は、死後の世界が存在することを、確信している。

人生を生きる目的

さて、死後の世界があるとした場合とないとした場合では、人生を生きる目的が、180度違ってくる。

もし死後の世界がないとしたなら、目指すべき理想の人生は、欲しいだけの金を儲け、社会的に高い地位に着き、好きなだけ贅沢をして暮らすことである。

しかし、死後の世界があるとしたなら、その世界でいかに良く暮らすかが、究極的な目的となってくる。

これを読んで、皆様はどう思われるであろうか?

皆様の中には、「私は死後の世界など信じない。この世界での成功が全てだ」という方も、おられるかも知れない。

しかし、亡くなった瞬間に、自分の存在がこの世界から消えてしまうことは、恐ろしく感じないだろうか。

誰しも、自分の死を考えると、多少なりとも恐ろしさを感じることと思う。

現在生きているこの地上世界に全ての目的を置く人は、普段は自分の死を考えないようにしているのかも知れない。

しかしその人も、いざ目の前に死が迫ってきたときに、平穏な気持ちでそれを受け入れられるであろうか。

筆者は、死後の世界があることを確信するので、それを想定して現在の生を生き、地上を去る瞬間にも慌てないよう、心の準備をしておくことが、賢い生き方のように思えるのである。

それでは、死後の世界に行って、良く暮らすには、具体的にどうしたら良いのか。

イエス・キリストの言葉に、次のようなものがある。

「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝を蓄えてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、盗みらが押し入って盗み出すこともない天に、宝を蓄えなさい。」

意味としては、この現実世界の中でいくらお金を稼いだとしても、死後の世界には持っていくことはできない。

しかし、人生を生きる中で多くの人を愛し、愛の実績を築くならば、天に宝を蓄えることになり、それこそが、死後の世界に持っていける財産になる、というものである。

これは、仏教で言うところの、「生前に良いことをした人は、その功績が認められて極楽浄土に行き、悪いことをした者は、罪状が暴かれて地獄に落ちる」というのと、似通っている。

ただ、悪いことをしてはいけないのはもちろんだが、それと同時に、お金を蓄えるのを人生の究極的な目的にしてはならない、ということである。

もちろん、金持ちになることそのものが、悪いというのではない。

お金を蓄えても良いのだが、人生の究極的な目的は愛の人格の完成であり、それを忘れて物質的なことばかりに囚われて生きるなら、人生の最期に後悔するだろう、ということである。

イエス・キリストによれば、死後の世界は、人間が数十年から100年くらいの、この地上での限られた人生を生きてから行く、永遠の世界である。

そこでは、愛の人格の完成度合いによって、住む世界の等級が変わってくる。

多くの人を愛し、愛の人格の完成度合いの高い人ほど、広い世界を自由に行き来できる。

物質的なことばかりに囚われて、ほとんど人を愛さずに人生を終わってしまった人は、地獄とまではいかないが、狭い窮屈な世界で、永遠を過ごさなければならない。

そして、悪事を重ねてきた者は、地獄での永遠の生が待っている。

地上での人生は有限だが、次の世界は永遠である。

それから考えると、この地上の人生は、次の永遠の生を生きるための準備期間のようなものとなってくる。

バランスのとれた幸福

人生をどのように生きるかについて、今日まで様々な意見・議論があった。

ある人は、この地上世界での成功が、人生の全てであるように言った。

また、ある宗教的な考え方では、どんなにこの地上で貧しい悲惨な生活をしても、熱心に信ずるものは、死後の天国が保証されると言った。

ただ筆者が思うには、結局、バランスのとれた幸福な地上での人生を行き、いつか地上を去る日が来るのに備えて、心の準備をして置くのが良いと思っている。

そこに人生の究極的な目的を置かなければ、お金持ちになることも、社会的な成功を修めることも、大いに結構である。

これを読んでおられる読者諸氏の皆様も、様々な境遇の方がおられると思う。

社会的にも成功し、ある程度の財産を築いておられる方もいると思うし、なかなか良い機会に恵まれず、不本意な人生だと感じている方も、おられることであろう。

社会的に成功し、ある程度の財産もある方の中で、損得勘定抜きで付き合える友人を多くお持ちの方は素晴らしい。

その方は、愛の人格も兼ね備えておられると思うので、残りの人生を、より人のために尽くすように歩んでいただければと思う。

筆者が思うに、社会的に成功することは、明確な目標を設定してあらゆる努力を傾けた結果であるので、それを通して人格的に成長することこそ、永遠の世界でも価値が出てくるのだと思う。

社会的な成功を通じて、財産も得られるとしたら、それを独り占めしようと執着することなく、より多くの人のために使うならば、さらに価値があるのではなかろうか。

財産がありながらも、信頼できる友人が少ない、利害のからむ人間関係が多いという人は、

一度今までの人生を振り返って、心の内面を充実させ、まずはできる範囲で、愛の実践を少しずつしていっていただけたらと思う。

たぶん、目の前のことに忙しく、人生を大局的に見る余裕がなかったのかも知れない。

これからの人生の終盤を見据えて、どうしたら自分の本心が望む幸福が得られるか、時間をとって、じっくりと考えてみていただきたい。

また、今までの人生でなかなか成功に恵まれず、不本意な人生だと感じている方は、まずは今までの人生を嘆いたり、人や社会を恨んだりすることをやめよう。

そしてともかく、今の生活の中で、何かしら感謝できる要素を見つけ出すのである。

人は、不平不満や恨みなど、負の心のエネルギーに取り付かれると、負の運命のスパイラルから抜け出せなくなる。

そのときは、いったん負の心のエネルギーを、さっぱり捨て去ることである。

そして、感謝できる要素を見つけ出せたなら、どうしたら残りの人生を充実したものにできるか、それを考えるのである。

感謝の気持ちから、正の心のエネルギーが出てくると、不思議なもので、徐々に運命が好転するようになる。

いろいろ紆余曲折はあるかも知れないが、日々を感謝し、最善の努力を続ける者に、運命の神はきっと報いてくださるはずである。

人生は、最後の最後の瞬間まで、何が起こるかわからない。

諦めずに努力を続けることで、悔いなく人生を終われるであろうし、好ましい結果もついてくると思う。

そして、最初は生活苦から抜け出すことに必死だとしても、余裕が出てきたら心の内面に目を向け、同じように愛の実践をしていっていただけたらと思う。

筆者は、全知全能の神は、全ての人がバランスのとれた幸福な地上での人生を行き、また死後の永遠の世界でも幸福に生きることを願っておられると信ずる。

恵まれた境遇にある人は、今の状況を当たり前と思わずに、感謝の念を持つべきと思うし、また不遇の立場に置かれている人は、何か感謝できる要素を見つけ出して、幸福への道を切り開いて行って欲しい。

そして、この地上の人生を悔いなく行き、次の永遠の世界でも幸福になることを願うものである。